感情タイプ(LBP理論)

感情タイプは必ずしも感情的で、感傷的で、非合理的で、弱い訳ではありません。

 
感情タイプは、物事の有用性を模索する前に、まず物事の本質的な意義重要性にフォーカスします。

誰もが物事の「意義」と「有用性」の両方を見ますが、感情タイプはまず「世界、出来事、人々」の「意義と本質的な重要性」にフォーカスします。

 
これは感情タイプが、アイデア・人々・世界一般に、自身がその中に見出している意義に沿うことを望むことを意味します。

何かがその潜在的な重要性を欠いていると思われるとき - ある人が利己的であると判明したときや、素晴らしい哲学に欠陥があると判明したとき - そのような欠落は感情タイプを失望させます。

しかし、この意義へのフォーカスのすべてが、感情タイプに「人々、出来事、アイデア」の「重要性と意義」を見て、理解し、活用するための強力な能力を与えます。

したがって、意義にはそれ自体の有用性があります。

 
健全な感情タイプは「活用の必要性」と「意義へのより広い視点」の両方を気にかけますが、彼女らの自然なフォーカスは、何よりも意義にあります。

これにより、すべてに対してよりズームアウト視点となり、「全体像」と「その中の各部分の目的と意義」にフォーカスするようになります。

「意義」は「全体のコンテキストにおける有用性(use in the context of the whole)」に他なりません。

 
感情タイプは、広範で包括的な意義にフォーカスします。よって、彼女らは様々な詳細をまったく認識していない場合でも、その全体像のコンテキスト(背景情報)を容易に把握することができます。

これにより、感情タイプはズームアウト視点の実用主義(現実主義)を持ち、彼女らは、全体のコンテキストの中で何を実行すべきかを把握します。

したがって感情タイプは最終目標にフォーカスする傾向があり、目標に到達するための道のみに集中することで、道に迷うこと避けることができます。

このような視点と文脈の感覚(sense of perspective and context)こそが、意義を生み出し、それに独自の有用性を与えます。感情タイプによるこの感覚がなければ、思考タイプはすぐに自分で自分を窮地に追い込むかもしれません。

 
感情タイプと思考タイプの違いは特に多くのステレオタイプがあります。

双方とも同じように感情的になり、また合理的になります。

またすべてタイプは、それぞれ独自の方法で過度に感情的になる傾向があります。

感情的になるかどうかの違いは、タイプの違いではなく、一般的に健全であるか不健全であるかの違いです。

過度に感情に駆り立てられた精神は不健全であり、すべてのタイプはストレス時にそれぞれ異なる方法で等しく脆弱になります。

 
感情タイプの広くて包括的な視点は、感情(emotion)とのより大きなつながりをシミュレートしているように見えることがあります。

全体像のコンテキストの中で物事の意義重要性にフォーカスすると、希望や絶望、不思議や軽蔑といった強い感情が生まれることがあります。

これらは大きな感情であり、顕著なものです。

 
思考タイプが物事の特定の有用性にフォーカスすると、喜びや不満、興奮や失望などのより直接的な感情が生まれることがあります。

思考タイプは感情タイプと同じくらい感情的です。

感情タイプの感情(emotion)は全体像にフォーカスしており、思考タイプの感情(emotion)はほとんどの場合、物事の特定の活用または誤用に適用されます。

両タイプはどちらも感情との平等なつながりを享受し、過度に感情的な非合理性のリスクも平等に享受します。

 
そしてどのタイプの健全な人も、「非合理性」や「感情的な主観」に耽溺するべきではありません。

健全な感情タイプは自身の意見において主観的ではありません。

彼女らは、すべての物事の文脈の中で、物事の「客観的で測定可能な重要性」にフォーカスし、健全な思考タイプは、物事の「客観的で測定可能な独自の有用性」にフォーカスします。

主観性、反応、衝動的な感情は、感情タイプの特性でも思考タイプの特性でもありません。

それらは単に人の特性であり、すべてのタイプが独自にそれらを健全に習得する方法を持っています。

 
同様に、各タイプはそれぞれ独自の方法で、感情とその力と関わることを学ぶことができます。

人であるということは感情を持つことであり、それは良いことなのです。

 
健全で冷静な感情は、思考だけでは辿り着くことができない重要な視点を提供します。

健全な感情は、自身がまったく気づいていない真実を思い出させます。

これは、感情が「非常に強力な導きの光」となり、時には「意識的な理性を矮小化する理由」となります。

しかし、これはまた暴走する感情が非常に危険である理由でもあります。

例えば、暴走した感情は「理性とバランスの取れた視点による試み」を抑制します。

 
この「純粋な感情の力」と「思考だけではたどり着くことができないことを思い出させる能力」は、抑圧された感情が、常に私たちのすべての思考、見解、行動に影響を与える方法を見つける理由です。

これらの性質は、抑圧された感情をはるかに危険なものにします。

なぜなら、抑圧された感情が意識的な思考を支配している間でさえ、それらの包括的な影響は無視されるからです。

 
感情によって操作される最も簡単な方法は、感情が要因ではないかのように装うことです。

そうすることで、感情は心の後ろで勝手に走り、すべての経験を彩り、すべての意見やアイデアを歪めます。

思考タイプであろうと感情タイプであろうと、不健全な人は感情を抑制したり、感情に耽溺しようとします。

 
感情的でないように見えるか否かに関係なく、自身の感情について穏やかな人は、感情を最も深く育てている人である可能性が高いです。

したがって、感情タイプであるということは弱く、優柔不断で、不合理であるということを意味するのではなく、またそのような不健全な対処メカニズムを正当化するものでもありません。

そして、感情的にならないように試みる人もいますが、その欲求それ自体が非常に感情的な欲求であることが多く、通常それらは恐怖、孤独、プライドから生じます。

 
感情的にならないように試みるのは不健全の例です。

ステレオタイプ的な「感情」は、理性を妨げる可能性があります。しかし、嫌悪感、アイデアが歓迎されないことへの不快感、軽蔑や悲観主義などの「感情」も、すべての合理的な思考を妨げる可能性があります。

この種の否定的な感情は依然として感情ですが、自分自身を非感情的であると考える人にとっては、理性に取って代わるものとなります。

 
しかし、理性と感情が自然な関係で一緒に育まれるとき、私たちは「過度に感情的な主観性」や「誤った無感情的な冷徹さ」に陥ることなく安全に生きることができます。

注意を払い、その感情を思い出すことで、合理的で誠実な人生へのアプローチを育むことができます。そして、それは新たな発見をもたらし、目に見えない危険から身を守るこができるようになります。

あらゆる種類の感情は、私たちが自身の思考やエネルギーをどこに使うべきかを考えるのに役立ちます。

 
感情がなければ論理はコンテキストと視点を失い、重要な原則を無視し、不正確さに迷い込んでしまいます。

健全な感情は、思考タイプと感情タイプの両方において、それぞれ異なる方法で自由です。

Posted by melancoly